実は昨年の年末の話なのですが、

12月27日に右手を骨折してしまいまして・・・


どうして?
 

その理由を話すと「大変ですね」と言われながらも、

皆さん少し苦笑されるのですが。



その日のお昼、家に戻ると、

下の子が、サンタさんにもらったブレイブボードに乗る練習をしていました。


スケボーは4つのタイヤが付いていて地面を蹴って進みます。

ブレイブボードは、前と後ろに2つだけしかタイヤが付いていません。

下半身をくねくねすることで前に進むことが出来ます。

近所でも小学生がくねくね気持ちよさそうに進んでいるのを見かけます。



今日始めて乗るうちの子は、進むどころかボードに立つ事すら出来ていません。

後でネットで調べたら、タイヤが2つしかないので、

乗るにもやはりちゃんとした練習が必要だったんですね。



でもサンタさんのプレゼントを大喜びしている息子を見て、お父さんもご機嫌さん!!

「 何をしてんねんなあ(笑) お父さんにちょっと貸して見てみぃなあ (笑)(笑)(高笑)」



で右手が折れたわけで・・・ ・・



始め、レントゲンでは親指の関節も疑わしいと親指までギブスで固定されて、

お医者様には「親指の偉大さを実感しますよ」と微笑まれ。

痛みどめを処方してくれたお薬屋さんにも「何でまたこの年末に」とあきれられ。

利き手が使えない生活が始まりました。



不便です!



ご飯を食べる時もスプーンやフォークを使って見たりしたんですが、

どうも食べている気がせず、左手でお箸を使うと決めました。



顔を洗うのも左手、歯を磨くのも左手、ふきんを絞るのも左手だけ、

そう左手は実によく頑張ってくれました。



お風呂でも濡れない様にナイロン袋をかぶせられた右手に変わって、

一生懸命働いてくれる左手。



でも気が付いたんです。



そこまで頑張ってる左手を、誰も洗ってあげることが出来ないんです・・・



で、そんな不自由な生活をしていて、なんでこの文章のテーマが『自由』なのか!



そう前置きが長くなってしまいましたがここからが本題です。

右手が使えなくなって今までの自由やありがたさに気が付いた。

もちろんその事も十分に実感致しました。




でももっとほかに、自分を制限していたものに気付かされたのです。

今日はその事についてシェア出来たらと思い文章にしました。

読んでくださった方の『自由』に少しでも貢献できたらうれしいです。



こんな所で告白するのも恥ずかしいのですが、僕は結構几帳面なんです。



例えば洗濯物。

洗濯機から出したらまず一枚ずつたたんで、パンパンして一度重ねてから干す。

もちろん乾いたらそれぞれしわを伸ばして、ちゃんと左右対称になるようたたみます。



お布団も。

敷布のかぶせ方、毛布の敷き方も決まっています。

どんなに忙しくても、洗濯物も家族全員のお布団も僕が敷いていました。



家のことをするのは決して嫌いでなく好きな方です。

でも時間が無い時には、イライラしてやってることもあります。

本当にしたいことがあるのに、なかなかそれが出来ない。

お風呂を洗うのも、ストーブに灯油を入れるのも etc.



奥さんは「あとで私がやるからほっとけばいいのに」とか、

「子供たちに手伝わせたらいいのに」って言います。



確かに子供たちにお手伝いをさせることはとても大切なことだと思し、

別に奥さんが無理に僕にやらせようとしているのでもない。



でも気がついたら自分でやってしまってるんですね。



そんな矢先、右手が使えなくなって自分のことさえままならない状態に・・・



そう、もう”お願い”するしかない状態になってしまったのです。

「ごめん お父さん手が使えないからお布団を敷いてくれる?」

「ちょっとお父さんと一緒に洗濯物たたんでくれる?」

「悪いけど、お父さん見ているからストーブに灯油入れてくれない?」



お願いして見ると、子供たちも結構はりきってやってくれます。



布団の敷き方も、いつもなんとなく見ていたみたいで、

二人の男の子は、ああだこうだと言いながら楽しそうに敷いています。



綺麗ではないですが、洗濯物も一応”たたまれて”います。

布団を干したり押入れにしまうのも、喜んで手伝ってくれます。

お願いすれば楽しみながら手伝ってくれる子供たち。



じゃあなぜ僕は今まで”お願い”しなかったのだろう??

・危ない。

・自分でやった方が早い。

・自分の思うやり方でやってくれないなど 等々。



確かに家事の中にも危険なことはあります。

でも、危ないからとずっと子供たちにやらせないのも良くないです。



自分でやった方が早いというのも、やる事が多いとつい理由にしてしまいがち。

でも、少し時間がかかっても子供たちに任せて見ることも大事。

几帳面は悪いことではないけれど「こうじゃないと嫌」という気持ちに、

「絶対」という言葉がついちゃうと自分にも他人にも制限を与えてしまいます。



そうです。



周りの状況や誰かが僕の自由を奪っていたのではなく、

僕自身の”心の中にあるもの”が自分を制限していたのです。



自分のこだわりや心配を少しリラックスさせてあげて、

人のやり方に任せたり、なんとかなるかぁ。

そんな気持ちを持とうとすることも、自分を解放して楽にしてあげることにつながります。



では、もう少し心の深いところにある気持ちを覗いて見るたら?

・なんとなく子供にやらせることを”申し訳なく”感じる。

・あまり”親として役にたててない様に”感じるから、

 せめてそれくらいの事は自分がしなきゃと思う。



”お願いしない”心の中には、『罪悪感』や『無価値感』もありそうです。



『子供』に対してそんな風に感じないなあと思う人も、

普段面倒なことを任せてしまってるなあと思う『奥さん』に対して、

最近ほったらかしにしちゃってるなあと感じている『旦那』に対して、

また職場でたくさんの仕事を一人で抱えてしまってる時の気持ちを少し想像して見てください。



人に”お願い”出来ないでいる心の中にはもしかすると、

自分は本当はあまり役に立ってないかも・・・

○○として十分相手に与えていいないかも・・・

私は本当は周りに迷惑な存在のような気がする。

こんな気持ちが隠れているかも知れない。



少し別の言い方をすると、

人に”お願い”しない様にしていれば、

心の中のあるその”嫌な気持ち”に向き合わずに居られるのです。



仕事が忙しくてなかなか自分の”自由”な時間が無くてね。

子供も手のかかる旦那も居て”自由”なんてあり得ないわ。

やらなきゃいけないことばかりで、本当にやりたいことが何も出来ない。



もしあなたがそんな風に感じる時があったなら、

あなたの自由を制限しているものは周りではなく、

本当は自分の心の中にあるかも知れないことを思い出して見てください。



そしてその制限を手放す手っ取り早い方法は”お願い”することです。

勇気を出して自分の”気持ち”を感じながらお願いした時、

ずっと自分に対して感じてきた誤解や思い込みが無くなるかも知れません。



あなたが誰かに”お願い”する時、

あなたが誰かに”信頼”という気持ちを贈ることになるのです。



自由とは、自分本位に身勝手にふるまうことではなく、

人との本当のつながりを感じた時に手に出来るものだと思います。



今、自由でないなあ、また今少し息苦しいなあって感じることがあるなら、

少し勇気を出して明日誰かに”お願い”して見ましょう。

思いのほか大きな収穫があるかも知れませんよ。



そして何よりも、



あなたが”お願い”した時、

あなたと同じ様に、あなたの役に立ちたい。あなたを助けたい。

そう思ってくれている人が居ることに気付きます。

明日、少しチャレンジして見ませんか。




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